2006年1月31日火曜日

ジャーナリズム、とは



最近、朝日新聞の企業広告が目に付く。


言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。


朝日新聞


http://www.asahi.com/information/


8月の虚偽メモ報道から続いている朝日不信(もっとも、それはあくまでも代表的な例であって、それよりも前から朝日新聞不信はあったと思うが)に対する企業からのアプローチだとは思うが。遅きに失した感のある事案ではあるが、なぜこのタイミングなのか、というと「創刊127周年だから」なのだそうだ。


朝日の報道は偏っている、といわれることが(特にネット上では)多いが、そもそもジャーナリズムとはそういうものなのでは、という気がしている。


たとえば、朝日や毎日や読売が、特定の事件に関して横並びの報道をしていたら、それはおかしいだろう。誰かしらが記事を書き、それを編集し、発行する上で、必ずそこに「人間の意思」は介在する。


新聞やニュースはあくまでもメディアであって「公器」ではない。


そこに記されたものがありとあらゆる立ち位置の人間から見て「正しい」わけではない。メディアが何かを発表するときはスポンサー、政治との兼ね合いが存在する。


「誰かを傷つけないように」、「間違いのないように」気を使い続け、確たる証拠(正確には公的な判断)が得られた途端にそれを「完全な悪」として徹底的に叩きまくることがジャーナリズムなのか。


大本営の発表だけを垂れ流しているだけのメディア(それは新聞だけに限らない。普段読んでいるゲーム、グッズ、映画情報誌だって、同じようなことをしているところはある)が成立している以上、自分の目や耳で「自分の知りたい真実」を見つける必要が(少なくとも僕には)ある。


数年、あるいは十年近く前のインタビュー記事や、映像を引き合いに出して「あなた、こういっていましたね」と突きつけるような手法をとる人々がいる。


正直なところ、あれはどうかと思う。


僕の場合ではあるが、自分の考え方や方針は常に変わるもので、その時点における「最善の方向性」を自分で判断して、それを選択している。その方針が変わることだけにフォーカスを当てて、その変更の過程、それに伴う判断の是非(正しいか、間違っていたかはその判断の瞬間瞬間で下すしかないが)について精査すべきなのではないか。


特に、TVメディアは「作り手側」の顔が見えない恐ろしい場所であるといえる。


3年近く番組に出演させてもらっていた側からすると、正直なところ「怖いな」と思うシーンが多々あった。


その時点で「オススメできるタイトル」を選択し、メーカーにインタビューに行く、という形で構成された番組で、基本的には全て僕がブッキングを行い、メーカーへの取材アポなども取っていたのだが、時折番組スポンサーの都合で「このタイトルについて紹介してほしい」というものが入ることがあった。


深夜の時間帯のアニメ情報番組であるため、そういった(俗に言うギャルゲー系の)タイトルが選ばれることが多いのだが、それを「松井がオススメしてる」ことに対して、反応が当然ある。「これは僕が選んだんじゃないんですよ!」と言ったところで、その言葉を裏付けるものは何もない。自分がゲームについて語っている映像だけが証拠になる。


「誰が作った台本であっても、それを読んだ時点でその言葉はしゃべった人間のものになる」


これは、かなり怖い。ニュースは、ニュースキャスターではなく、その裏側のニュース編成者によって送り出されている。しかし、その作り手の顔は滅多なことでは出てこない。どんな思想(政治的、宗教的な思想ではなく、文字通りの考え方)を持っているのか、何を思って報道を行っているのかもわからない。それが怖い。


新聞を意図的に取らなくなってから、もう6年になる。


速報ニュースはWebでいい、ダイジェストは毎週買っている雑誌でいい、と割り切って考えているが、そんなに不都合は感じない。それはニュースを「知識」ではなく「情報」としてとらえるようになってきたからなのだろうか。


いずれにせよ、ジャーナリズムとは、というものをもう少し考えなければ。





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